物事を見つめ、知り、学ぶ・・・そんな簡単なことから始めたい
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

・女性が権力を持った国は数年以内に滅びる
・少数の男性が大多数の女性と性交渉する時代が来る
・老人が多く自殺する国は滅ぶ
・男性は女性と比べ、生物学的にも全てにおいて能力が上。だからといって男は女性に優しくする必要はない。
 女性に優しい女性優遇国家は成長しないどころか衰退する。
・一般人までもが近代科学文明に頼るようになると性交渉の低年齢化が進み、子供が子供を産む時代が来る
・私は間違っているが世間はもっと間違っている
スポンサーサイト

損保ジャパンDIY生命2009年調査

夫に内緒の資産(へそくり)を持っている主婦は46.8%
平均374.3万円
最高1億円

1年前の調査の461.3万円から18.9%もボリュームダウン
理由のトップは「臨時出費があった」(37.9%)

回答したのは、20~50代のサラリーマン世帯の主婦500人

(日刊ゲンダイより)

弟子「先生、処女を貴重だと思う男は多いです」
孔子「その通りだ」
弟子「しかし逆に童貞は女に気持ち悪がられます」
孔子「確かに」
弟子「おかしいじゃないですか、何故このような意識の違いが生まれるのですか」
孔子「それは一度も侵入を許していない砦は頼もしく、
   一度も侵入に成功しない兵士は頼りないからだ」

弟子「では30年も侵入を許していない砦は相当頼もしいのでしょうか?」
孔子「建てられてから30年も経つと、砦はどうなるかね?」
弟子「多くは朽ち果て、場合によってはうち捨てられます」
孔子「そのような砦を攻める者はいないということだ」

【半糖夫妻】・・・夫婦で普段は別居して週末だけ一緒に過ごす結婚の形態。高学歴や高収入の夫婦間で流行っている。普段から互いに煩わしいこともない生活をおくれることやたまに会うので新鮮味が保たれるのがメリットだという。

【丁寵家庭】・・・ 子どものいないDINKS夫婦が子どもの代わりにペットを飼ってかわいがる家庭のことをいう

http://tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1259910590/より引用


 モテ趣味よりも本当に好きな趣味を-恋愛のゲーム化に醒めた男

近頃「anan」をはじめとする女性雑誌が「いかにしてセックスしたがらない男をその気にさせるか」「どうやって恋愛したがらない男を振り向かせるか」という、わりと切実な特集記事を組むケースが増えてきている。

晩婚化・非婚化現象はかなり以前から問題になっているが、メディアを見ているかぎりではどうやら最近は女性のほうが恋愛やセックスに熱心な傾向があり、男性は一部の「モテ系」と、そうではない「非モテ系」に二極分化しつつあるらしい。80年代後半、バブル経済華やかなりし時代に、恋愛は商品化されていった。

例えば、アベックが映画館で松任谷由美のテーマソングが流れるホイチョイ・プロダクションのトレンディ映画「私をスキーに連れてって」を観て自分たちもスキーに行きたくなり、西武バスに乗って苗場のスキー場へ行き、プリンスホテルに宿泊してスキーとセックスを満喫する・・・といったような「恋愛資本主義経済サイクル」とも言うべき構造が確立されたのが、80年代後半だった。70年代初頭、恋愛とは貧乏で政治や社会に希望を失った若者が絶望の果てに見出した閉塞的な世界だった。上村一夫の「同棲時代」こそが、当時の若者の恋愛観を描き出していたといえる。しかし空前のバブル景気によって、恋愛もまた大量消費システムにり込まれ、消費のための商品になったのだ。このバブル時代には「恋愛マニュアル雑誌」なるものが隆盛を極めた。男性誌では「ホットドッグプレス」がその代表格だ。若者は、メディアから「女にモテるためにはこういう髪型をしてこういう服を着てこういう話題を身につけて・・・」といった一連の「恋愛のルール」を刷り込まれ続けたのだ。「ナンパ」という言葉も発明された。恋愛はそれまで男女の偶然の出会いから始まる「縁」「運命」と考えられていたが、「ナンパ」の勃興は、恋愛が一種の「ゲーム」になったことを意味する。もともと「ナンパ」の語源は「硬派」に対する「軟派」で、女の尻を追い回す軽薄な男を意味していた。つまりは侮蔑語だったのだが、80年代に入ると女を追い回す軟派=ナンパこそがスタンダードとなり、逆に硬派の方が笑われる時代になったわけだ。

この80年代という時代に、ナンパや「軽薄短小」と呼ばれる一連の「恋愛資本主義文化」の裏側で密かに誕生し、徐々に拡大していった勢力が「オタク」なのだ。お宅は一言でいうと「恋愛資本主義に組み込まれなかった人々」と定義できるだろう。僕の一つ上の世代である評論家の岡田斗司夫氏がオタクの第一世代にあたるのだが、この世代では「SF」がオタク文化の中心だった。その後「アニメ」そして「萌え」へとオタク文化のメインストリームは変遷していくのだが、中心が変化しようがオタク文化に終始一貫して共通していることは、オタクが80年代的「マニュアル恋愛文化」(僕はこれを旧来の「純愛」的な意味での恋愛と区別するために「恋愛資本主義システム」と呼んでいる)に背を向け続けているということなのだ。オタクはマニュアルによって作られた恋愛ゲームに参加するために「モテ趣味」という与えられたルールを学習することよりも、自分自身が本当に好きな趣味を満喫するというライフスタイルを選択したのである。そして、21世紀に入った現在もなおオタク市場が拡大し続けているということは、マニュアル恋愛・ゲーム恋愛・・・つまり恋愛資本主義システムの市場が縮小の一途を辿っているということを示している。オタク市場はつい最近までニッチと思われていたが野村総研が市場規模の試算などを行うなどした結果、もはやニッチとは呼べない巨大産業になっていることが明らかになった。その一方で非婚化の流れ、恋愛離れの流れが止まらなくなっている。さらに、オタク文化の中でも二次元世界での脳内恋愛というべき「萌え」が主流化してきたということは、何を意味するのだろうか?この問題を考察する際の手がかりは80年代から現代にかけて信仰した「セックスと愛情の分裂」という現象にある。

もちろん僕が言っている「恋愛という商品」は、AVやキャバクラといった直接的な産業のことだけではなく、80年代以後における通常の「恋愛」そのものを意味している。つまり、マニュアルに沿って自らをパッケージングし、ファッションやモテ趣味といった恋愛スキルを習得した男女が、ルールに沿った恋愛を演じながら消費を続ける・・・という一連の行動じたいが「商品化された恋愛」なのだ。80年代のテレクラの隆盛も、恋愛がキャバクラやライト風俗の延長線上に位置する「商品」となったことを意味している。その結果どうなったかというと、まず恋愛と売春の境界線が限りなくあいまいになった。さらに90年代に入ると「援助交際」という言葉が発明された。援助交際とは、ありていに言えば「素人売春」のことである。しかし売春という言葉は後ろ暗いので「援助交際」という呼び方を発明して、誰にでもやりやすいものに変えてみたというわけだ。

また恋愛の商品化によって「常に恋愛していなければならない」「いつもセックスしていなければならない」という強迫観念が、人々、特に若い層に植え付けられていった。オタクが嘲笑の対象であり続けたのも、オタクが恋愛資本主義のシステムに入っていないからだ。「恋愛は縁であり運命である」という考えは廃れていき、恋愛はライトでお手軽な消費活動に変貌していった。その上恋愛を構成するセックスと愛情という二つの要素が切り離されていったのだから、普通の女子高生が援助交際に走るという事例が増加したのも当然といえば当然なのだ。高崎真規子の「少女たちはなぜHを急ぐのか」(NHK生活人新書)によると、最近では未成年の援助交際は減少しているものの、恋愛やセックスの体験をはやく済ませてしまおうという脅迫観念にはやはり根強いものがあり、「ヤラはた」という言葉まで作られているそうだ。「ヤラはた」とは「セックスせずに(ヤラずに)二十歳を過ぎてしまう」ということを意味しており、若い女の子の間ではそれが「恥」なのだという。

にわかには信じがたいのだが「恋愛とは経済活動であり、自分の若い肉体は賞味期限のある商品である」という思想が彼女たちにとっての「現実」となっているのであれば、ありえない話ではない。生鮮商品は時間とともに価値を失っていくわけだから、鮮度の良いうちに売って消費してしまおうという発想は、商品としては正しい。しかし萌える男である僕としては、こういう話を聞くと何ともいえない虚しい気分に陥ってしまう。

「魂」と呼ぶと宗教がかってしまうが、精神分析用語を使って「自我の支え」とか「アイデンティティ」と呼んでもまわない。ただ「魂」という言葉がもっとも一般的でわかりやすいので使っているわけだ。


●「恋愛偏差値」というパラメーター●

さてこうして80年代から現代にかけての恋愛の商品化の流れを俯瞰してみると、まるで誰もがお手軽にコンビニでお弁当を買うような感覚で恋愛できる世界が実現しているかのように思える。ところが、実際にはそうではない。現実はまったく逆で、恋愛できる人間と恋愛できない人間の格差は、この20年の間に広がる一方だった。マニュアル恋愛には一定のルールがあり、確固とした統一的な価値基準の体系がある。

そこでは男女ともに厳密なルールに沿って「恋愛偏差値」とでもいうべきパラメーターを持たされる。
このパラメーターが一定の数値を超えていれば恋愛できるが、足りなければ市場に参加できない。大学入試センター試験のような一種の「足切り」が行われるわけだ。ゆえに、恋愛偏差値の低い男はライト風俗やAV、キャバクラなどで期間限定の「レンタル恋愛」という商品を購入することになる。

しかし、レンタル恋愛では僕が問題にした「魂」の飢えの充足、つまり精神的な癒しを得られるのだろうか?やはり難しいといわなければならない。本来、恋愛が人間にとって必要とされているのは「愛情による半永久的な癒し」を得られるからだと思う。もちろん現実には「永遠不滅の愛」などは存在しないが、恋愛している間は、一瞬でもそういう幻想を抱いていられるのだ。それゆえに恋愛は必要とされてきたわけだ。ことに宗教や政治の価値が低下した現代社会では、恋愛はそれらのシステムに代わって人間を癒す重要なシステムとなっている。

「恋愛ニート」という社会問題

ストーカー犯罪が、恋愛市場からはじき出された人間が無理やりに恋愛市場に入り込もうとする行動なのに対して、恋愛市場に参与することを放棄してしまうというケースも増えている。つまり「恋愛しない人々」だ。
  
彼らはただ単に恋愛していないというだけではなく、最初から恋愛する意思がないわけだ。これは、いわば「恋愛ニート」とでも呼ぶべき存在だ。僕自身もこの恋愛ニートの一員なのだが、職業ニートが社会問題化し彼らをなんとかして再就職させようという動きが活発化してきている。オタクと恋愛ニートは完全に重なり合っているわけではないものの(オタクでも恋愛している人や結婚している人は大勢いる)、かなりの部分で一致している。メンタリティ的には、オタクはまず潜在的な恋愛ニートと考えていいだろう。というのは、オタクは恋愛資本主義システムから逸脱しているからだ。恋愛に消費するよりも自分の趣味に消費する、それがオタクのライフスタイルだからだ。したがって、オタクが社会、特にマスメディアから非難されがちなのは、実はオタクが潜在的な恋愛ニートだからなのだ。

男の二極化-萌えオタクの登場とDVの社会問題化

さて、キャラクターに萌える男が増殖する一方、正反対の方向、つまり「萌えない男」への道を進んでいる男性も増えているようだ。男も女も80年代以降に進行した「恋愛の二極化」によって、恋愛する人間と恋愛しない人間の二種類に極端化しているわけだが、概して恋愛市場で女性にモテるのは「萌えない男」だ。萌える男は、よほど顔が良いとか金があるとかいったアドバンテージがないかぎり、「オタク」とか「キモイ」とか言われて敬遠されることが多いようだ。それに対して、萌えない男はルックスや経済力がいまいちでもそれなりに恋愛できる。ここでいう「萌えない男」とは「萌える男」の逆のタイプを意味する。萌える男は、「恋愛とは萌えて忍ぶものなり」という受動的態度で女性に対しても一種フェミニスト的というか気弱な平和主義者だが、萌えない男は「恋愛とはセックスなり、セックスとは恋愛なり」という能動的?態度で女性に接する。能動的というと誉めているようだが、逆の面から見れば生身の女性をあまり大事に扱わない態度ともいえる。たとえば僕のような萌える男は、本気で好きでもない女性とただセックスしたいからといって「好きだ」と嘘をついてとりあえず付き合う、というような行動は決して取れない。相手を利用して騙すことになるからだ。しかし、萌えない男は「セックスしたいので、別にすきでもないがとりあえず口説く」という行動原理で動いている。萌える男は「本気」にならなければ、自分から女性を口説かない。「とりあえず」などということは、ありえないのだ。しかも、女性からはたいてい敬遠される。ひるがえって萌えない男は、女と見れば口説く。しかも実は萌えない男のほうが一見情熱的にみえるので女性に好かれる。

萌える男を非難する男たちは「萌える」という行動の持つ意味が理解できない。それは「萌える」能力が欠落しているからであり、彼らは「脳内に別の現実世界を構築する」という想像力に欠けているのだ。さらに、「男は女を口説いてセックスして恋愛するべきである」という社会通念を絶対的な真理だと信じ込んでいるのだ。これは、ニートに対して「仕事をしない人間は悪だ」「人間が働かなくなると社会が衰退する」という理屈と原則的には同じである。萌える男が社会から批判されるのは、つまり萌える男が「恋愛ニート」だからなのだ。

なぜ女はオタクを相手にしないのか-「恋愛資本主義市場」と「オタク市場」
「萌え~」と口走る萌えオタクは、酒井順子の「負け犬の遠吠え」でも「恋愛対象外」の存在、ダメ男として槍玉にあげられているわけだが、漫画家の倉田真由美が「SPA!」で連載している漫画「だめんず・うぉ~か~」でも、オタクは「不可視」的な存在だ。存在というより存在そのものを抹殺されている。「だめんず・うぉ~か~」には図のような「恋愛ピラミッド」が登場する。このピラミッドを、僕は「恋愛資本主義ピラミッド」と名づけている。

恋愛資本主義においては、女性はすべての男性を「商品」として値踏みする。男性は「容姿」「経済力」「趣味」「性格」など、詳細な基準によって判定され、「恋愛偏差値」を算出される。この判定基準は、80年代以降に発達した恋愛資本主義システムが作り上げた「恋愛マニュアル」とも呼ぶべき価値体系によって厳密に規定されている。このルールはマスメディアを使ってシステムが作り上げた幻想にすぎないのだが、彼女達「恋愛資本主義システム内部に生きる女性」にとっては、唯一絶対の真理なのだ。倉田真由美と斎藤孝の共著「喫茶店で2時間もたない男とはつきあうな!」(集英社)では、女性が喫茶店を面接会場として使用し、デート中に相手の男性を恋愛マニュアルのルールによって減点し、振り落としていく様が詳細に解説されている。

ゲームだから厳密なルールが定められており、しかもそのルールを作成している元締めは恋愛する当事者ではなくマスメディア、というわけである。メディアが規定したルールに沿った恋愛というゲームを、生身の人間たちが演じさせてくれているのだ。恋愛資本主義システムが問題になっているのはなぜなのだろうか?まず、このシステムが多額の消費を要求するという点にある。恋愛資本主義システムは、金が潤沢にあり余っていた80年代のバブル期であれば効率よく循環するシステムだが、可処分所得が減少の一途をたどっている時代には、ふさわしくない。先ほど紹介したように、東京圏(東京だけではないが)の独身女性は恋愛対象・結婚対象である独身男性に対して不当に高い収入を期待しすぎている。一定以上の消費能力がない男性は、恋愛資本主義のピラミッドから排除されてしまうのだ。また「消費すべき趣味」が非常に限定されている。恋愛資本主義において消費すべき趣味とは、ファッションや自動車、ブランド商品などだ。これらもすべてバブル時代に華やかなりし産業であり、デフレ時代の趣味としてはふさわしくない。例えば恋愛資本主義バブルの象徴であった苗場のスキー産業は90年代から衰退の一途を辿っており、回復の気配が見えないままになっている。80年代にフェミニズムと空前のバブル景気がたまたま同時に勃興したため、フェミニズムがもたらした女性の経済的・精神的自立の流れと、バブルに後押しされたあくなき消費活動への欲求とが不幸にも結びついてしまったのが、「恋愛資本主義」システムの肥大化の元仁なのではないだろうか。フェミニズムは歴史的な必然で登場した思想だったが、それがたまたまバブル経済と結びついた時に現代の負け犬問題・非婚化問題の種が
撒かれてしまっていたのだと思う。つまり恋愛資本主義システムとは、現実の世界を舞台にした「恋愛ゲーム」なのだ。

「オニババ化する女たち」にはうなずける
三砂ちづるの著書「オニババ化する女たち」(光文社新書)は、女性の負け犬化・非婚化に対するひとつのアンチテーゼだ。内容は「女性は子供を生んで育てないと、オニババになる」という極端な話だが、萌える男の僕としてはうなずける部分も多々ある。僕は今年で36歳だが思い起こせば同年代の独身女性と一緒にいて心が癒されたという記憶が全くない。「喫茶店で2時間もたない男とはつきあうな!」的な厳しいチェックの視線にさらされ、オタク趣味を咎められ、金を稼げと叱咤され、果ては役にも立たない陳腐な人生訓を長々と説教され・・・という経験を十数年も積み重ねてくると、「恐ろしい」という感情ばかりが蓄積されていく。しかしながら、結婚して子供を育てている年上の女性には、はるかに肝要な人が大勢いる。これはあくまでも僕の経験上の話だが、恋愛資本主義システムの中で恋愛ゲームや結婚ゲームに勝利することに夢中になっている30代独身女性は、癒しや萌えとはもっとも遠い存在なのかもしれない。

萌える男をはじめとするオタクが恋愛資本主義社会で女性に相手にされない理由はいろいろある。ファッションに投資しないので容姿だけで門前払いになってしまうというケースがもっとも多いが、それ以上にさまざまな要因があげられる。たとえば、恋愛資本主義の世界で推奨されている消費趣味と、萌えの世界で消費される趣味とが、まったく重ならないのだ。萌える男がフィギュアやアニメのDVDや萌え漫画本をどれだけ消費したところで恋愛資本主義側で生きる女性が喜ぶはずがない。むしろ怒る。なぜなら恋愛資本主義のルールでは、男性は自分のためではなく女性を喜ばせるために消費活動を行うものと定めされているからだ。

まさに映画「私をスキーに連れてって」のタイトルが示すとおり、恋愛資本主義社会では男性は女性に消費生活の楽しみを与えるための下僕なのだ。

ファッション、スキー、グルメ、自動車、マンションといった「モテ趣味」は、結局は「女にモテるための趣味」なのだ。たとえば自動車趣味にしても、自動車そのもののマニア(車オタク)になってしまうと、とたんに女性に敬遠される。オタク化した趣味は「自分自身のための消費」であって、女性のための消費ではないからだ。

にもかかわらず、萌える男は、自分自身のために消費する。すなわち、彼らは恋愛資本主義のルールと真っ向から対立している存在なのだ。ゆえに、女性を喜ばせるサービス精神のない、自分勝手で失礼な男と思われる。だから萌え趣味は、必要以上に批判され忌み嫌われるのだ。また萌え市場は恋愛資本主義市場そのものにとっての敵とみなされるのだ。

「もうオタクと恋愛するしかない」---「脱オタク」ムーブメント
萌えオタクをダメ男と認定して恋愛対象から排除する、というのが2003年までの恋愛資本主義市場の一般的なルールだった。「負け犬の遠吠え」や「だめんず・うぉ~か~」は、そのルールに則って書かれたわけである。しかし2004年に入ると、萌える男を恋愛資本主義のシステムにもう一度引き入れようという正反対の動きが顕著になってきた。排除すれども嘲笑すれども、萌える男はそんな恋愛資本主義側の動向などお構いなしで、その数は減るどころかむしろ増え続けている。そして、その間にも負け犬女性たちはどんどん高齢化していく。萌える男は自ら望んで恋愛資本主義システムから逃散しているわけだから、そもそも負け犬女性たちに何を言われても構わないのだ。そこで、恋愛資本主義システム側が一歩譲歩する形で、「オタク男に恋愛のルールを教え込んで、恋愛のパートナーとして育て上げる」という新しいプログラムが作成された。それがインターネットの匿名掲示板「2ちゃんねる」から誕生して100万部を超えるヒットとなった「電車男」(新潮社)なのだ。

「電車男」は、掲示板で「電車男」という名前のオタク男が書き込んだリアルタイムの実話という設定になっている。秋葉原に通う若いオタク青年が、エルメスというニックネームの(恋愛資本主義フォーマットを完備した)女性と偶然知り合い、彼女と恋愛しようとする。だが、彼は恋愛のルールや常識をまったく知らない。たとえばどこで食事をしてよいかわからないので、ネットの掲示板に、「めしどこかたのむ」という教えを乞う書き込みを行って情報を得ていく、という筋立てとなる。こうして掲示板に集まっている毒男(独身男)たちにあれこれアドバイスを貰ったりエールを送られたりして、最後にエルメスに告白して恋を実らせる・・・という感動的なストーリーだ。しかしながら、作中では恋愛資本主義のルールと萌えオタクのルールが衝突することはない。終始一貫して恋愛資本主義のルールがより高等なルールであり、萌えオタクはひとつランクの低い存在である」という不文律が貫かれている。何のスキルも持たない主人公が、周囲に応援されながら徐々に恋愛のスキルをマスターしていき、最後には恋愛師匠と呼ぶべきエルメスに「よく頑張ったね」と祝福され、涙ながらに恋愛資本主義の世界への参入を喜ぶという物語なのだ。「電車男」という物語の構造は、いってみれば、一種の自己啓発セミナーに似ている。萌えオタクという間違った思想を否定し恋愛資本主義という素晴らしい思想を電車男に植え付けていくという物語構造になっているのだ。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。