物事を見つめ、知り、学ぶ・・・そんな簡単なことから始めたい
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大木氏は、米国で12年間活躍した後、2006年にアルバート・アインシュタイン医科大学外科教授を辞め、母校の教授に就任した。慈恵医大から教授就任要請を受けた際、アルバート・アインシュタイン医科大学からは年収約1億円以上へのアップが提示されたという。そのほか、年収約8000万円の医療機器メーカーの日本支社の社長という選択肢もあった。しかし、大木氏が選んだのは、「年収880万円、プラス母校、仲間、後輩」という道。当時は43歳で、「慈恵医大130年の歴史で、臨床系の教授では最年少での就任」(大木氏)だった。

大木氏は1987年、慈恵医大卒業。最初に入局したのは同大の整形外科だが、「手術は教授になってから覚えろ。それまでは基礎研究」と言われたという。そこで、第二外科の門を叩くものの断られ、1989年に第一外科に入局した。しかし、呼吸器外科を志望したが同期と競合し、紆余曲折を経て選んだのが血管外科だった。結果的には性に合っていたのだろう、同大および関連病院で研さんし、論文数も増え、実績を重ねるにつれ、「給与と充実度」はともにアップした。

 専門とした心血管系の手術症例は、日本よりも米国の方が圧倒的に多い。臨床の腕を磨くために、1995年米国のアルバート・アインシュタイン医科大学モンテフィオーレ病院研究員になった。

 しかし、そこで待っていたのは、手術見学の日々。無給で、研究費などもなかった。しかも、留学目的であるステントグラフト手術は、死亡例が続いたことから中止していた。「使っていたデバイスは手作りで、見るからに粗悪品だった」(大木氏)。大木氏の「給与と充実度」はともに最低レベルに。「充実度も下がったのは、給与がゼロになったからではなく、米国社会に放り込まれ、不安になり、“留学ブルー”になったことが大きい」(大木氏)。

 “外科に捨てるものなし”とは?

 ただ、時間だけはあった。「“外科に捨てるものなし”だが、アメリカの外科医は、頸動脈内膜摘除後のプラークを捨てていた。私はそれを拾って、研究室に持ち帰った」(大木氏)。

 当時、ステント術で問題になっていたのは、術後の血栓症。それを防ぐ方法を研究するために、画鋲や身近にあったシリンジなどを用い、約20ドルで、血管造影や経皮的血管形成術(PTA)などが再現できる実験装置を作り、“捨てられていた”プラーク組織を用いて実験を重ねた。「大志は、時に打算になってしまう。打算を持ち、研究テーマを探すと、確実にシングルヒットが打てる研究テーマを選びがちになる。そうではなく、打算がないところにホームランがある。私の研究について、米国の友人からは、『ばかばかしい、遺伝子の研究をやれば確実に成果が出る』と言われたが、私は別に論文を書くためにアメリカに来たわけではない」と大木氏は当時の思いを語る。

 血栓症を防ぐためのデバイスの研究・開発に取り組み、論文を発表、ベンチャー会社を起業し、製品化までつなげた。こうした成果が認められ、1997年に研究室長のポストを得、月給1000ドルがもらえるようになった。「米国は、実力主義。人種差別、学閥、長幼の序が極端に少ない。ベンチャーを立ち上げる際にも環境がいい」(大木氏)。

 次に取りかかったのは、粗悪品だったステントグラフトの改良。研究を重ね、治療成績の向上に成功。1998年には米国の医師免許を取得、給与も年収約2500万円に上がり、「充実度」もアップした。世界初の破裂性腹部大動脈瘤ステントグラフト術を成功させ、主要ジャーナルにも数々の論文を発表。1999年には、世界初の腹部大動脈瘤ステントグラフト術を行ったアルゼンチンのParodi氏などとともにVascular Innovation Incを立ち上げるなど、複数のべンチャー企業の運営にも参画。

 着実に実績を上げていた大木氏には、他の大学などから様々なオファーがあり、そのたび年収がアップしていた。そんな1999年、慈恵医大に戻るか、あるいは辞表を書くか、決断を迫られたという。大木氏自身は、帰りたいと考えたが、身内の要請などから、その時は米国に残る選択をした。「背水の陣で、“出過ぎた杭は打たれにくい”、そんな心境でやっていた」(大木氏)。

 大木氏は、2002年にアルバート・アインシュタイン医科大学モンテフィオーレ病院血管外科診療部長、2005年、41歳で同大学の血管外科学教授に就任している。「無給医から、はい上がり、宝くじを引き当てた青年が、同大学の史上最年少の教授になった」(大木氏)。

 しかし、ポジションが上がるにつれ給与は上がったものの、充実度はかえって下がった。「ライブ手術をやるなど、常にスポットライトを浴びて、手術をやれば、多くの人が見学に来た。昔、上司だった医師も皆、部下になった。それは一見、サクセスストーリーだが、全然、ハッピーではなかった」と語る大木氏はこう続けた。「無人島のノーベル賞より、仲間に祝福される社長賞なのだろう。アメリカという殺伐とした社会で、いくらほめられ、いくら給与をもらっても、無人島でノーベル賞をもらったのと同じで、意味がない。やはり仲間がいるところで、お金にならなくても祝福される方がいい。イチローはまだそこに気づいていない」。当時は、時々、日本からアメリカに手術を受けるために患者が訪れると、特段の“トキメキ”を覚えたという。

 母校の慈恵医大では、2002年には“慈恵医大青戸病院事件”(前立腺がん患者への腹腔鏡手術での事故で担当医3人が業務上過失致死罪で起訴、後に有罪確定)が起き、その頃の外科では毎年10人以上が退局していた。2005年に母校から、「一肌を脱いでくれ」と教授就任要請があったのは、そんな折だった。
教授に就任当初、「外科再生ビジョン」として掲げたのが、(1)外科医局員の総幸福度アップ、(2)日本の医療に貢献、(3)慈恵医大外科のOBが誇りと思える講座、大学――だ。そのための医局運営方針として、「トキメキと安らぎのある村社会」と「数は力なり、幸せなり」の二つを据えた。医局員の数が増えれば、一人当たりの雑用が減り、それにより生じた自由時間を、「もっとバイト、ゴルフ三昧、研究に打ち込む、ひたすら手術」(大木氏)など、各自の志向に合わせて使うことができるという発想だ。

 以降、入局者は増加、一方で退局者は減り、現在の医局員は235人にも上る(本院および30の関連病院の医局員の合計)。直近の3年間を見ても、入局者は2008 年10人、2009年22人、2010年14人で、来年も17人の入局者を予定している。外科医不足が指摘される日本の医療界にあって、特筆すべき数字だ。

 大木氏は、「決闘と切磋琢磨は違う」と指摘する。「米国では、個人を優先するあまり、帰属意識が薄れ、村社会の良さ、つまり思いやりや相互監視がなくなり、違法でなければ何をやってもよい社会になっている。非常に近視眼的で何でもインセンティブで解消すると思っている。私も一応、勝者だったが、孤独で疑心暗鬼で、少しもハッピーではなかった。今のイチローがまさにこの状況ではないか」(大木氏)。

 そんな米国は、「人を不幸にする社会」であるものの、実力社会で、研究開発や“腕試し”には好条件だという。そして米国に行くと何より祖国のありがたさがよく分かるとする大木氏は、「米国は骨を埋める社会ではない。若者よ、世界に向かって大志を抱け、だけどいつの日か故郷に錦を飾れ」と述べ、講演を締めくくった。

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大木氏によると米国は不幸な社会なのだそうだ
競争が激しすぎてお金持ちになっても孤独であるようである
かといって日本では880万
日本の報酬は低すぎるような気もするが

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